ちょぼ焼:これも関西系粉物ジャンクフード注1  
たこ焼きの鉄板の型より少し小さいサイズで浅くって真ん丸にならない型・・・・・・・・(三笠焼の型のようで直径が五円玉程度・銅製だった)で焼く・・・溶いた小麦粉をたこ焼きと同じように注ぎ鰹節の粉(カッツォの粉)大阪弁で言うと 刻んだこんにゃくを甘辛く炊いて入れ、醤油をたらして焼く・・・香ばしくって美味しいよ。
 昔はちょぼ焼コンロちゅうのがあって(七輪など炭火を熾すコンロのことを大阪弁でカンテキと呼ぶ) まずカンテキの上で焼いて下面が焼けるとカンテキの下(ちょぼ焼器を入れるスリットが開いている)にいれ上面を焼くように出来ていた・・・(あわてて入れると灰が落ちるのが難点であった)

 昔むかし大阪のお好み焼きは焼き方が違った・・・・大正(関東大震災があった大正12年)から昭和のはじめ具にこんにゃくや牛スジ肉をしょうゆで甘辛く煮たものを入れ、醤油味の「べた焼」注2や前出の「ちょぼ焼」が庶民に愛された。その後、洋食焼という名前で呼ばれる食べもが出現(一枚一銭で販売されていたことから 昭和初期一銭洋食とも言われた。ソース味が定番になり始めそれゆえハイカラな洋食な食べ物から名前が付いた) 昭和8年ごろには駄菓子屋に行くと数人座れる程度のカウンターに鉄板があって今のお好み焼屋のように焼いて食べれた・・・・もちろんコテを使って食べてた。
 焼き方はべた焼という焼き方で、現在の広島地方で一般的なお好み焼きの焼き方に似ているがそばを入れるお好み焼きはモダン焼という名前で区別されている注3。鉄板上に薄くクレープ上に小麦粉を延ばし キャベツの千切り牛筋の醤油で甘辛く煮たものかミンチ肉をちりばめ 上から軽く小麦粉の生地をたらす・・・・・・片面焼けたら裏返しもう片面を焼いて再び返して出来上がり。 後に卵も割るようになったが当時(昭和初期)は貴重品だったので、通常スタンダードスタイルは玉子は入れない。  
 牛筋というのが当時の大阪を物語る・・・昭和12年「洋食焼」が「お好み焼」注4という名前に変わる。卵を入れてる上物もこの頃登場し豚肉や野菜などお好みの物を何でも入れる事からこの名が付いたようだ。
 今のキャベツ・いか・肉・卵などをあらかじめ混ぜ合わせるスタイルが一般化し始めたのが昭和30年以降注5と母の記憶には残っていた。  私の家庭では昭和45年ごろまでは親父はレガシースタイル(卵入りで 牛筋じゃなく豚バラ肉)で焼いていたな・・・我々子供達は混ぜ焼のほうが好きだった。
 ラジューム焼(ラジオ焼注6 昭和8年、大阪の生野の会津屋の初代遠藤留吉氏が客層の拡大を目指し当時子供向けのちょぼ焼の改良版として考案。今のたこ焼とほぼ同じ鉄板で 具にはこんにゃくやミンチ肉 牛筋などを使って醤油をたらして焼いた ちょぼ焼と非常に似ているが、形がこんもりと丸く当時のラジオの真空管に似ていた事からラジオ焼といったそうな、昭和10年更なる客層の拡大を狙い、明石のタコを入れた玉子焼きをヒントにタコを入れ始めたのが「たこ焼」の始まりとされている。ちなみにちょぼ焼きの「チョボ」とはラジオのつまみのことらしい。
 もうひとつのラジオ焼(ラジューム焼) 今の回転焼のような鉄板で(回転焼は銅板だか)きざみキャベツやミンチ肉 玉子を入れて焼いた。昨今関東の夜店で見かける大阪焼き注7のようなお好み焼のようなもの 当時、ラジオはヘットフォンを使って聞いていたためその耳当てに形が似ていたことからラジオ焼といったらしい どっちがラジオ焼でラジューム焼かは定かではないが 当時から大阪は元祖や本家争いが大好きで・・・たぶんどっちかが折れてラジューム焼と名乗ったらしい?
 いか焼はといえばそれらより歴史は古く、“明治末期にはもはや存在していた”との証言もある。当初はせんべい職人の賄いに、せんべいを焼くときに使用する挟み込み焼き上げるように作られた鉄板を使い焼いて、食されていた物が次第に店頭で販売されるようになった?・・・・・・当時は醤油味だったようだ
 注1:同じ名前で・・・熊本地方に鉄板上にクレープ状に伸ばした生地に鰹の粉と醤油たらしてくるくる巻いて食べる物もあり 私の家庭にも同じ物を焼く風習があったが ちょぼ焼とは区別でも名前は特に無かった・・・お好み焼き焼くときに最後の口直しに焼いて食べた・・通称:カッツォの粉焼こ!!で通じた
 注2:現在のお好み焼きの主流のように予め具を混ぜるのではなく、鉄板上に薄くクレープ上に小麦粉を延ばし キャベツの千切り牛筋の醤油で甘辛く煮たものかミンチ肉をちりばめ 上から軽く小麦粉の生地をたらす。片面焼けたら裏返す再び表に返す焼き方
 注3:大阪ではそれをモダン焼と呼び昭和47年ごろ戎橋界隈で販売し始める店が出た。当時中学生だった私は友人と連れ立って食べに行った事を覚えている。
 注3.注4:お好み焼きには作法も具や焼き方決まりも無いというのが、私の持論。したがって広島風、関西風という表現は厳密には正しくない。それらの風土や習慣・材料に左右された時点でお好み焼きとは呼べなくなる。あえて決まりがあるとするならば小麦粉を使うということだろうか。したがって、そばが入ると限定された時点でそれは、「モダン焼」であるというのはそれはそれで正しい。関西人は懐が広い尚且つ食べ物については貪欲な府民性がある、広島地方で焼かれるお好み焼きのことをお好み焼きのひとつのスタイルであると認めてはいる。しかし、当の広島市民は広島のお好み焼きは広島焼にあらずお好み焼きであると公言しているようである。原材料を限定した物を○○焼と限定するのもそれはそれで正しい命名方法だと考察する。
 注5:器に最後に残ったメリケン粉の生地に残った材料を放り込み最後の一枚を焼いた時の焼き方が結構美味しかったのというのも、昭和30年以前でも材料を一滴・ひとかけらたりとも無駄にしないという主婦の知恵、「ぼてじゅう」が発案したとされているが厳密には、営業的にこの世に送り出したのは「ぼてじゅう」ではあるが、「ぼてじゅう」の発明品とはいえない。ちなみに、マヨネーズをかけることを考案したのは「ぼてじゅう」である。
 注6:初代遠藤留吉氏は福島県の出身ゆえ会津屋の屋号が使われた。当時から明石地方には献上品としてタコを入れた玉子をふんだんに使った玉子焼きと称する物があった。今では明石焼として非常に有名であるが、留吉氏は客に指摘されそれをヒントにラジオ焼の中にタコを入れて当時婦女子に爆発的な人気をさらった(当時芋・タコ・南瓜は婦女子の好物なのは当時常識とされていた。)
 注7:誤解無きよう注釈を入れるが、当然のごとく大阪には「大阪焼」というものは無い、比較的似ている物に香川県仁尾町に「たこ判」という、たこ焼きとお好み焼きの折衷判がありそれに近い。

我が家のお好み歴史学より


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